意識低い系社会人のしつぎょうにっき

意識低い系社会人である私が意識の低さ故失業して迷走する様子を(ほぼ)リアルタイムでお届けする予定のブログです。

完全に社畜になれるならそれはそれで幸せだと思います

社畜も悪くないと思います

社畜と言うと完全にネガティブな表現ですが、社畜になりきれるなら幸せな生き方の一つだと思います。

 

組織での評価は幸福度に直結します

余程優秀な人や、生まれついてのお金持ちであれば一人の力で生きていけるかもしれません。しかし、そうでない大抵の人間は、必ずと言っていいほど何らかの組織に属して生きていかざるを得ません。
そしてその組織での評価が、その人の幸福度に大きな影響を及ぼしているのが現状です。
組織での評価が高ければ、まず居心地がいいです。逆に言うと評価の低い人は、居心地の悪さを感じながら、それでもしょうがなくその組織に所属する羽目になります。
組織での評価が低い人から、評価が高い人へのパワハラというのはほとんど聞いたことがありません。(逆はしばしば見かけますが)
また組織での評価が高ければ、その組織から得られる見返りも大きくなります。
目先の賞与とかもそうですし、何より昇進に影響し、生涯年収で雲泥の差がつきます。
民間企業、公務員、あるいはNPOを問わず、どの組織でもそういった傾向はあるのではないかと思います。

 

組織で評価されるには(幸福に生きるには)

ではその幸福度を決める組織での評価は何で決まるのでしょうか。
最もその組織で評価されるのは、誰もが認める功労者です。
どんな規模の組織であっても、頭一つ抜けた人はいるのではないかと思います。
そういった人は、群を抜いて甚大な貢献をして、誰よりも評価され、それに異を唱える人はほとんどいません(いても大抵排除されます)。
しかしそんな人はごく一握りです、結局冒頭で述べた、「余程優秀な人」に類する特殊な存在に過ぎません。
では大多数の凡人が組織で評価されるためにはどうすればよいのでしょう。答えは組織への深いコミットメントや高い忠誠度を示すことです。それを極めた人々が、俗に言う「社畜」です。
大抵の人はそこに気がついて、順応しようとした結果社畜になろうとするのではないかと思います。

 

エセ社畜はつらいよ

「私はこの組織が大好きですよ。」「この組織が私の生き甲斐です。」と言った意思表示を、行動をもって行うことで組織での評価を上げ、少しでも生きやすい環境を作ろうとする訳です。(具体的には、休日出勤、サービス残業、意味不明な会社行事への積極的参加等々)
でもそれが本心でなければ、つらいと思います、と言うかつらかったです。
世の中には、社畜になりきれない人もいます。社畜と言う言葉がここまで流行しているのは、本心からそういった評価体制に順応できない人たちが多いからなのではないでしょうか。
社畜になりきれない、エセ社畜として生きていかざるを得ない、正直幸福な生き方ではないんではないでしょうか。

 

冒頭でも言いましたが

そういった意味で、社畜になりきれる人は、そうでない人(私はそっちが大多数だと思っています)より幸せだと思います。
「余程優秀な人や、生まれついてのお金持ち」に加えて「本当の意味で社畜になれる人」を加えてもいいのではないかと言うほど特別な、恵まれた人だと思います。
なので、完全に社畜になれるならそれはそれで幸せだと思います。

 

社畜になれない人々へ

では、特別な人間でない人は、不幸に生きるしかないのでしょうか。
かつてはそうであったかもしれませんが、今はそうではないと思います。
今までの様に、社畜か自立かといった様な二択ではなく、組織への浅いコミットメント(代わりに低い報酬)と、生活を補助する副業といった選択もでてくるのではないでしょうか。
現状では、そもそも組織への浅いコミットメントが許されなかったり、社畜のふりをしていないと退職を余儀なくされるほど居心地が悪かったりする組織も多いでしょう。
しかし、とりわけ若い人たちの間での労働観の変化や、労働力人口の減衰などにより、多様な働き方を認める圧力が強まっているのではないかと思います。
社畜が死語と化し、それぞれの人が自分にあった働き方をできる様になる日が、一刻も早くきて欲しいものです。